認知症を患いながら適切な診断と治療、そして介護介入を受けずに独居生活や家族との同居を続けた場合、そのトラブルは家庭内だけに留まらず、地域社会へと波及していきます。受診しないことで生じる「社会的・法的リスク」は、現代の複雑な社会システムにおいて決して無視できない重みを持ちます。本事例では、70代の女性Bさんのケースを分析します。Bさんは物忘れが激しくなっていましたが、受診を頑なに拒んでいました。その結果、彼女は「近所の人が自分の家の中にゴミを捨てている」という被害妄想を抱くようになり、毎日のように隣人の家に怒鳴り込む、庭に水を撒き散らすといった迷惑行為を繰り返すようになりました。受診していないため、地域包括支援センターや民生委員が介入しようとしても、Bさんは「私は病気ではない」と追い返し、家族も有効な手立てを打てませんでした。事態が最悪の局面を迎えたのは、Bさんが夜間に徘徊し、他人の敷地内に不法に侵入して転倒、大怪我を負った際、救急車の中でパニックになり、駆けつけた隣人に危害を加えてしまったことでした。このケースにおいて、Bさんの家族は、受診を怠り適切な監督義務を果たさなかったとして、隣人から法的な損害賠償を請求される事態に陥りました。民法714条には、責任能力のない者が他人に損害を与えた場合、その監督義務者が賠償の責任を負うという規定があります。もしBさんが早期に受診し、認知症の診断を受けた上で、ケアマネジャーが入り、適切な介護保険サービスや見守り体制が構築されていれば、このような事故は防げたはずです。また、受診しないことによる法的リスクのもう一つの側面は、詐欺被害です。判断力が低下した高齢者を狙う悪徳業者にとって、診断を受けていない「無防備な高齢者」は格好のターゲットです。診断があれば、消費者契約法などに基づき不当な契約を取り消しやすくなりますが、診断がなければ「本人が納得して契約した」と主張されるのを覆すのは至難の業です。さらに、火災のリスクも深刻です。鍋を火にかけたことを忘れ、近隣を巻き込む大規模な火災を引き起こした場合、重過失とみなされれば巨額の賠償責任が発生します。認知症を受診しないことは、本人に自由を与えているようでいて、実際には本人を法の保護の外に置き、取り返しのつかない社会的制裁に晒しているのと同じなのです。専門医を受診し、病状を数字化・文書化しておくことは、万が一のトラブルの際に本人と家族を守るための「最強の法的防具」となることを、私たちは重く受け止める必要があります。